毎日新聞社刊の医学雑誌MMJ
http://www.mainichi.co.jp/syuppan/mmj/
の10月号に、青野由利さんが以下のような文章を書いていた。
報道の現場から 第7回
科学カフェ
科学者が提供した話題を肴に市民らと議論する
内容は日本でサイエンスカフェが始まった経緯を説明し、くらしとバイオプラザ21の「バイオカフェ」に参加した感想を書かれている。その他武田計測先端財団や北大のカフェについても触れている。
産総研の「技術と社会研究センター」がまとめた報告書「科学と技術の楽しい関係:Cafe Scientifique (英国編)」が発端であると触れているが、
「この「科学と技術研究センター」は、残念ながら04年の春に廃止されている。発足からわずか1年半であり、これにはびっくりした」と、チクリ。さすが青野さん。
ちなみに、この産総研の報告書を作った人たちがはじめたのが、私がお手伝いさせていただいているカフェィアンティフィーク東京
http://www.cafescientifique.jp/
だ。
話を戻すと、青野さんはこの文章の最後に鋭い指摘をしている。
「だが、行政が進める「科学カフェ」は、結局のところ、「科学技術政策の受け入れ(パブリック・アクセプタンス)を進める」ということに利用されかねない。それは、本来の「科学カフェ」の概念とは、異なるものだ。」
こういった懸念は、STSネットワークジャパンが今年の春開催したシンポジウム
「カフェ・シアンティフィーク―その現状と可能性―」
http://stsnj.org/nj/schedule/sympo04s.html
でも一部の参加者が指摘していた。
私は、「理解増進運動」とか、「アウトリーチ」にも同じにおいを感じている。もちろんそれらは重要なのだけれど、最近の科学コミュニケーションブームは、どうもそれに乗っかってしまっている気がしないでもない。
せっかく盛り上がったブームにけちをつけるのか、といわれても仕方ないが、そのあたりは流れにまかせず考えておいたほうがよい。
青野さんは続ける。
「もちろん、科学カフェの試みは日本では始まったばかりであり、最初からケチをつけていては何も始まらない。こうした動きに触発された市民自身が、自分の家の近くで、気軽に「科学カフェ」を試してみるようになれば、「官主導の科学カフェ」は姿を消していくだろう。そこから生まれてくる「生きた議論」に、期待したい。」
ただ、科学楽しい派と科学問題派?とはどうも対立する傾向があるが、どちらがあってもよいと思う。科学の暗い面ばかり言うとネガティブキャンペーンみたいになってしまう、という懸念は鋭い。一方で、パブリックアクセプタンスばかりでも困る。
要はバランスということか。
コメント
cafemania (2005/10/20 22:41:54)
おそらく、本来の「科学カフェ」の概念なんてないし、こんな小さな活動がパブリックアクセプタンスにつながるはずもない。カフェだって、西洋的なエリート主義の真骨頂ともいえるし。でも、いまカフェをむりやりやると滑稽なほどに他者との出会いの連続になる。それって結構すごいこと。本流だろうが亜流だろうが、おもしろいのはそこんとこだと思う。
m00106623 (2005/10/20 23:14:59)
コメントありがとうございます。私は「居酒屋やれ」って前から言っているんですけれどね。