科学・政策と社会ニュースクリップ

科学政策や科学コミュニケーション等の情報をクリップしていきます。

科学技術白書を読む

平成23年版 科学技術白書
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa201101/1302926.htm

閣議決定され、ウェブ上に公開された。

震災を受けて「東日本大震災について」
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2011/07/12/1308357_002.pdf

を追加したため、公開が一ヶ月遅れたという。

まだ全てに目を通してはいないので、この付け加えられた部分をみてみたい。

ここでは、科学コミュニケーションについて、厳しい評価を述べている。

本白書第1部では、「社会とともに創り進める科学技術」という特集テーマの下、科学技術に対する国民の理解と信頼と支持を得ることができるよう関係者が進めてきている科学技術コミュニケーション活動の現状と課題について示している。しかし、こうした関係者の思いとは裏腹に、特に今回の原子力発電所事故により、国民の理解と信頼と支持という点で大きな課題を突き付けられることとなった。

事故に関するコミュニケーションでは、透明性、正確性、迅速性が重要であるが、事故発生の当初の段階では、自治体への通報の遅れを含めて適時かつ的確な情報の提供が進まず、事故に関するコミュニケーションに課題を残した。

震災後、科学技術コミュニケーターが放射線に関する講座やサイエンスカフェを開催するなど情報発信に取り組んでいる事例はあったが、今後、科学者・学協会等の科学技術コミュニティから、社会に正しく理解されるような形での情報発信が出来ていたのかについて、本震災を受けた活動の実態を把握・検証し、今後の科学技術コミュニケーション活動に活かしていくことが重要である。

 こうした科学コミュニケーションに対する厳しい評価は、震災直後からウェブ上などでも聞かれたものであり、私自身何ができたかと悩む部分はある。

 ただ、科学コミュニケーションを反省することの裏には、「正しい情報」が伝えられていなかったという前提がある。伝達の問題であると。

 もちろんそれは大きい。データの開示が遅れたこと、生データの解釈など、「正しい情報」「正しい知識」が必要な場面は多い。そういう意味で、この白書に書かれた「科学コミュニケーションへの反省」は重要だ。

 しかし、それだけで十分か。

 今問われているのは、「正しさ」が疑われているということだ。

たとえば原発自体の状態や、工程表などに示された事故収束に向けた見通しは次々と修正され続け、専門家によって諸説ある。累計100ミリシーベルト以下の低線量被曝のリクスについても知見の不確実性が高く、これまた諸説入り乱れている。また、反原発系の研究者や技術者が長年指摘してきたことが正しかったと事故で明らかになり、大手メディアでも取り上げられるようになったことは、3月11日以前に広く信じられていた「正しさ」がいわば世界の片側しか見ないものだったこと、そしてメディアのこの偏りに加担していたということを明らかにしている。

こうした事態であるにも関わらず、「正確な知識を」「正しく恐れましょう」と繰り返すことは、政府・専門家・メディアに対する信用不安をさらに広げかねない。

平川秀幸 朝日新聞2011年6月30日 オピニオン 明日を探る)

 「正しさ」へのゆらぎ。これは専門家、研究者、科学者への信頼のゆらぎにつながる。

科学の専門性という、これまで自明とされてきたことが、いまあらためて問いただされつつある。何が確実に言えるかという、その<<限界>>の知は、科学外の利害関係やさまざまの希望的観測によって歪められてはならない。時代に距離を置くこと、それを科学者は市民に負託されている。が、それは専門性に閉じこもることを意味しない。専門科学者は、他領域の科学研究、さらには社会生活の他の領域について科学的な物言いをなしえない人、つまり「特殊な素人」(小林傳司)でもあるからである。(鷲田清一 科学 612-613)<< 

 専門家も「特殊な素人」。そこを認識することが出発点ではないか。

 鷲田氏はこう述べる。

だれにも時代の、社会の、すべてを見通すことはできない。だから専門研究者たちには、常に異領域の研究者、つまりは他の「特殊な素人」たちと手を組みながら、この時代が直面する課題の全体をそれぞれの場所からケアするという仕事が求められる。

 「特殊な素人」は何も研究者のことだけを指すわけではない。水俣病に関わってきた医師、原田正純氏は、以下のような経験をしている。

 不知火海近くの集落では、10歳と6歳の男の兄弟が遊んでいた。弟は首がふらつき、ほとんど話せなかった。
「兄は水俣病ですが、弟は魚は食べとらんです。妊娠中にわたしの水銀がこの子にいったとじゃなかでしょうか」
 母親は強い口調で言った。
 原田は「そんなばかな」と思った。母体の胎盤は毒を通さないというのが当時の医学界の常識だった。
 だが、原田がほかの集落を歩いてみると、同じ症状を抱える幼い子が何人もいた。
「あのお母さんの言うことが正しかった」(朝日新聞2011年6月29日 ニッポン人脈記)

 素人は専門家であり、専門家も素人。これからの科学技術政策は、そこから始めないといけない。

 平川氏はいう。

正しいと確定していることについては正確で分かりやすく報道するのは当然として、知識・情報が不確実で政治的バイアスも疑われる状況では「知のポートフォリオ」という発想が必要だ。

政府の場合には、審議会など専門的助言組織において、意見や専門分野、社会的立場の異なる専門家をバランスよく集め、専門知のポートフォリオを組成することが重要だ。ちなみに全米科学アカデミーでは「偏りのない専門家などいない」ことを前提に、個々の専門家に中立性を求めるのではなく、様々なバイアスのある人を集め、審議会全体としてバランスを取るようにしているという。

そうした政府のポートフォリオが有効に機能するためにも重要なのは、社会全体としてポートフォリオを組成することだ。一つには政府の助言組織の審議過程とそこで利用される資料・データを広く社会に公開し、政府外部の多様な専門家(関連する知識がある職業人・生活者も含む)の知見や意見を集約し、専門家同士の相互批判を通じて、より信頼できる知見を引き出す工夫が必要だ。

 科学技術白書は、最後にこう述べる。

第3章 未来を社会とともに創り進めるために 第3節 対話と相互理解、そして参画が生み出す新しい地平
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2011/07/12/1308357_011.pdf

これまでの政府は、国民に自らの取組について理解を求めるという一方向のコミュニケーションになりがちであったとの指摘もある。今後は、政府や研究者・技術者等の関係者による適切な情報の公開を前提に、これら科学技術の関係者と国民が真摯に双方向の「対話」を行い、「相互理解」の上に、ともに科学技術イノベーション政策の形成プロセスに「参画」し、よりよい科学技術ガバナンスを実現させることが政策の重点となろう。

 私も、特定の意見のみに左右されない、オープンでフラットな科学・技術政策を望んでいる。
http://scienceportal.jp/HotTopics/opinion/151.html

 NPOの立場から、市民の立場から、こうした動きに関わっていきたい。