岩波書店「科学」が開設したページ、科学技術政策・議論の広場
http://www.iwanami.co.jp/kagaku/hiroba.html
に、私の書いた「お任せ科学・技術政策を超えて」 という文章が掲載された。
http://www.iwanami.co.jp/kagaku/E_Enoki20100120.pdf
その中で私は、科学技術政策を政府任せにする時代は政権交代で終わった、科学コミュニティや市民が、主体的に意見を言う必要があると述べた。
そして、その手段として、「研究者ネットワーク(仮)」の設立の必要性を説いた。
私は、サイコムジャパンのメンバーを中心に、科学技術政策を考える新団体を設立することが決まっていた中、行政刷新会議「事業仕分け」があり、科学コミュニティ内にAAAS(全米科学振興協会)のような、ボトムアップの草の根研究者組織が必要だという意見が高まり、この「研究者ネットワーク(仮)」を必要しなければならないという認識に至った。
12月6日に開催された「ノーベル賞受賞者じゃない研究者の緊急討論会」で感じた、多くの人達の思いを、持続的な活動につなげていきたいという思いで新団体「サイエンス・サポート・アソシエーション(SSA)」を立ち上げた。
活動をする中で、大きな悩みを感じている。
これは、実は以前から感じていたことでもあるのだが、私達の活動をいったいどういう言葉で表せばよいか、ということだ。
AAASも私達も、研究者だけをメンバーにしたいとは考えていない。
非営利組織である、という点を生かし、市民、マスメディア、行政、その他様々な立場の方々が集う場としたい。日本学術会議が「科学者の国会」であり、市民などがかかわれないことと決定的に異なる。欧米のように科学アカデミーと非営利組織の共存により、より多様な意見を科学政策に反映したいと思っている。
とすると、「研究者ネットワーク」は、その意図を表わしていないことになる。
ブロガー発声練習氏は、この点にふれており、
http://d.hatena.ne.jp/next49/20100118/p2
「科学愛好家ネットワーク」というご提案をしてくださっている。
ただ、科学という言葉が入ると、人文科学、社会科学系の方々が違和感を感じるという。自然科学の研究者も、人文科学、社会科学が「科学の作法」で研究を行っていない、という意識を持っているという。
科学技術も同様に人文、社会科学を排除してしまう。
では、学術はどうだろう。日本学術会議というではないか…
やはりしっくりこない。学問、学者、知的労働者、専門家…それもしっくりこない。
ガリレオの時代、いまでいう科学はnatural philosophyであり、科学者はnatural philosopherと呼ばれていたという。今でもアメリカの博士号はDoctor of philosophy (PhD)であり、philosophyがいちばんしっくりする言葉かもしれない。
しかし、natural philosophyはかつて窮理(きゅうり)学と訳され、いまは自然哲学とも呼ばれるが、その言葉もイメージが掴めない。
私達が何者であるか、ということを表すよい言葉がないということを痛感する。これが、医師や弁護士などと異なるところだ。
悩みはつきない。アイディア、ご意見があれば、お教えいただけると幸いだ。
ただ、何かを知ろうとする営みは、どんな人にもある、人が人たる所以の行為だ。それを大切にしたい。

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から一節を引用したい。
「研究者なんて糞だと思います。何もできないくせに口ばっかりで!」
と教授にくってかかり、研究に疑問を持った青山氏が出会った以下の場面。
しばらくたって、市民講座で先生の講演を聴いた。私にとっては目新しくもない「いつものウナギの話」だった。しかし、講演の後、決して豊かとは言えない身なりをした老人と、孫なのだろう、連れて来た子供が目をキラキラ輝かせ、話す声が耳に残った。
「面白かったね。ウナギはすごい所まで泳いで行くんだね。不思議だね」
その時私は、初めて生態学研究が何も作り出さないのではなく、自分自身が作り出したものを料理できないだけだったことに気がついた。
(そうか、俺が未熟なだけだったんだ)
一見なんの役にも立たないようだが、研究活動は立派に人々の心の糧を作り出していたのである。
思えば、アンデスの友人たちも夜空を見上げて、星の不思議について語り合っていた。たとえ貧しくとも、人が人である限り、知的好奇心は心の栄養になっていることを知った。そして私は、博士課程への進学を決意したのだった。