最近思うのだが、いわゆる今はやりの科学コミュニケーションに関わる人たちと、科学書や科学雑誌、科学ジャーナリズムなど既存の科学出版に関わる人たちの間に、非常に大きな溝があるように思う。
既存というと差別的なニュアンスがあるが、そんなことはなくて、既に確立された業界のことをさすことにする。
既存の人たちからみると、新しい科学コミュニケーションは怪しい。信用ならない。何をやっているか分からない。
カフェやらサイエンスウォーカーやら、何か新しいことをやろうとしているが、全然うまく言っているとも思えないし、内輪のノリだ。アマチュアだ。国のお金でオイシイ思いをしている。
なんで今まで既に確立された業界の仕組みを使わないんだろう…
思うに、既存と新の違いは、過去をどう評価するかの違いかも知れない。
既存は、今までの科学出版や科学ジャーナリズムを評価している。今まで、科学雑誌やブルーバックスなどが果たしてきた役割は大きい。なのにどうしてそれを評価せず、新しい科学コミュニケーションなどという概念を輸入したのか…不信と怒りが渦巻いている。
一方新の人たちは、今までを一定程度評価しつつも、科学雑誌は売れないし(技術雑誌は売れているという話は置いておくとして)、人々の科学への関心は下がっていくし、理科離れ、学力低下は進んでいる。原子力やES細胞など、科学をめぐる問題に喰らいついていない。科学報道に誤りが多いことを怒っている。このままではいけないのではないか、と思い、既存を一歩超えた、新しい概念に飛びついた。
新しい科学コミュニケーションに飛び込んでいる人たちが、理系研究者出身が多いのも、既存への不信や不満があるからだ。間接統治をやめて直接統治に乗り出した研究者たち、という感じだ。
私は、こんな溝があることが悲しい。
なぜ同じ方向性を持った人たちがいがみ合わなければいけないのか。たしかに既存の人たちからしてみたら、競合者だし、それどころか、質の低いものを作っているのにおいしい思いをしている人たちとみられても仕方ない。けれど、うまく協力していく方法はないのか。
市民と科学を埋める前に、広義の科学コミュニケーション内の溝を埋める必要があるのではないか。
新しい科学コミュニケーションの人たちは、過去をもっと振り返り評価すべきだ。一方既存の科学出版の人たちは、裏でこそこそ言ってないで、もっと表に出てはっきり言えばいい。俺たちを使え、と。
かねてから述べているように、今の日本の科学コミュニケーションは、草の根運動的で、フェイストゥフェイスの小規模な企画に長けている。一方、科学出版はマスを扱う。なんとなくすみわけができている。
しかし、境界を作って住み分けて、お互いを悪く言っても始まらない。
草の根とマスが結びついたとき、大きな変化が起こると信じている。