NPO法人サイエンス・コミュニケーション(サイコムジャパン)理事の山本さんが、本メルマガ8月16日号に寄稿された巻頭言、「博士号を取る前に知っておきたかったこと/知っておきたいこと」が、読売新聞の記事になった。
●「理系博士どう生かす」若手研究者らがアンケ
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100905-OYT1T00312.htm
●「理系博士の生かし方」教えて…就職率低迷、若手研究者ら調査
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20100905-OYT8T00247.htm
山本さんのオリジナルの本文には、とくに理系とは明記していなかったが、サイコムジャパンが理工系出身者中心ということもあり、記事では理系が強調されている。
この記事に関するウェブ上の反応に、この「理系」に違和感を呈したものがあった。
理系とは何なのか、理系なるものの正体とは…
確かに、突き詰めていくと非常にあいまいだ。
数学が一つのキーワードになるのかもしれないが、生物系ではあまり数学を使わない。むしろ経済学のほうが数学を使うだろう。医学を理系に入れるかはやや微妙だ。精神科などは文学に近いようにも思う。理学部と工学部の差は、理学部と文学部の差より大きいかもしれない。インパクトファクターのようなもので測れるのが理工系、そうでないのは人文、社会科学系という見方も出来そうだが、それも完全ではない。
今の科学は、理工系、人文、社会科学系も細分化されすぎ、二つで区切ることなんかできないのだろう。
とはいうものの、理工系(医学系)と人文科学、社会科学系で、この問題を別にとらえている人は多い。
理工系は社会に役立つから支援すべきだが、人文、社会科学系は、自分の好きなことをやっているから自己責任だ…そう言ってはばからない人もいる。
昨年の事業仕分けのときに、「文系とはいっしょにしないでくれ」という声が、理工系関係者から聞かれた。いっぽうで、ある非常勤講師の方から聞いた話では、事業仕分けで科学予算が縮減、廃止になったことを「理系ざまあみろ」と言った人がいたとも聞いた。
民主党の成長戦略で、「理工系博士の完全雇用」が謳われたとき、人文、社会科学系はやはり入らないのか、と落胆する声を聞いた。
文理なんか意味ない、二つの文化は古いと言いながら、いまだ横たわる文理の溝…これは、博士の問題の解決に大きな障害になるかもしれない。
外から見れば同じ「博士」なのに、中では優越があり、足の引っ張り合いをしている。それはもったいないし、問題解決に結びつかない。
そもそも博士という存在自体が、たとえ数万人いようとも、世間から見たら圧倒的なマイノリティなのだ。その中で争っても、何の得にもならない。
博士の問題は、文系、理系などという単純すぎる区別を超えて、そして、博士という枠すら越えて考えていかなければならないのではないだろうか。
そこに横たわるのは、人の能力を有効活用できない社会という問題だ。
博士の問題が、そのような大きな問題の一つの表現型と考えたときに、文理を超えた様々な立場の人たちと連帯することができ、問題解決の可能性が見えてくるのではないか。
昔、理学部の学生だったとき、こんなことを言われたことがある。
生命現象は、鳥が飛ぶ、歌うといった極めて特殊な現象を突き詰めていってはじめて、すべての生命に共通するものが見えてくる。特殊→普遍なのであり、逆はあり得ない。
博士の問題は特殊だ。多くの人たちにとって関心ない話題かもしれない。
しかし、そこを突き詰めていったときに、多くの人たちが直面している、共通する課題が見えてくる。
違いをなくすのではなく、違いを尊重する。
文理の差は、お互いがお互いを認め合うことで、解決できる。その先に、博士の抱える問題の解決があるのだと思う。