科学・政策と社会ニュースクリップ

科学政策や科学コミュニケーション等の情報をクリップしていきます。

研究よ変われ!

以下メールマガジンの巻頭言に書いた文章。

12月5日、6日と連続で、行政刷新会議事業仕分けに関する会に参加した。

一つは国家公務員労働組合主催のポスドクフォーラムそして、もう一つは、先週ご紹介した、私たちが主宰の

国民に大切にされる科学を考える
ノーベル賞受賞者じゃない研究者の緊急討論会〜
〜研究者ネットワーク設立にむけて〜
http://d.hatena.ne.jp/scicom/20091206/p1

だ。

二つの会で話したスライドの一部は
http://d.hatena.ne.jp/scicom/20091205/p1

にてご紹介した。

また、「ノーベル賞受賞者じゃない研究者の緊急討論会」の内容は、以下をご参照されたい。

Togetter(トゥギャッター) - まとめ「ノーベル賞受賞者じゃない研究者の緊急討論会」
http://togetter.com/li/1485

ノーベル賞受賞者じゃない研究者の緊急討論会
http://d.hatena.ne.jp/next49/20091206/p1

前置きが長くなったが、二つの会を通して感じたことを書きたい。

今回の事業仕分けは、よかった点と改善すべき点があると思っている。

まずよかった点は、様々な団体や個人が声明を出すなど、個々の研究者が科学政策に興味を持つようになったこと。結果論ではあるが評価したい。科学技術に膨大な予算を投じられながら、研究者が社会を意識せずにこられたのは、「科学技術創造立国」の名のもとに、前政権でいわば聖域として扱われてきたからだろう。研究者が政治や社会に関心を持つことは、「ダメ研究者」の烙印を押されることと同義であった。

そんな意識を完全に吹き飛ばし、政治や社会に真剣に向き合わなければならないという意識を研究者個々が持つようになった。

もう一点は、科学技術政策における市民参加が始まったということだ。

今、世界では、人々の生活や生命に深く関与する科学技術の領域においては、いかに市民の声を取り入れるかに腐心するようになっている。コンセンサス会議、テクノロジーアセスメントなどはその一形態だ。

事業仕分けをその流れで考えると、科学技術への市民参加の一形態であると言える。「専門家が参加していないから問題だ」という批判はあたらない。

改善すべき点として、以下のような点を挙げたい。

まず、その手続きだ。仕分け人がどのような基準で選ばれたのか不透明というのも問題だ。仕分け人が科学技術に精通してないという点が問題というより、中途半端に専門家が入ったことのほうが問題なのではないか。そうなると、科学技術予算のパイの奪い合いをする相手が予算を仕分けるということになってしまう。スーパーコンピュータの仕分けなど、そのように感じる面もあった。

だから、ランダムに、専門家をあえて排した上で仕分け人を選ぶという方がよいように思う。

もう一点は、多くの人たちが指摘しているように、仕分けられた事業とそうでない事業の選別が不透明という点だ。ここは、全部を仕分けるか、仕分けの舞台に乗った理由の説明を、政府が丁寧に行うかという改善がなされるべきだ。

以上、今回の事業仕分けについての評価を述べた。

次に、このような事業仕分けを受けた研究者たちの対応について考えたい。

ノーベル賞受賞者を始め、連日抗議声明とも呼べる声明が次々出ている。こうした声明を研究者が積極的に出すこと自体は、上記で述べたように評価したい。

しかし、その内容には極めて問題がある。

そもそも今回の事業仕分けは、科学技術自体の評価をしておらず、予算に無駄がないか、という点を評価している。行政刷新会議のホームページによれば、事業仕分けとは、一度計上された予算項目に対し、外部の視点も入れて、妥当性、必要性、有効性、効率性の観点から公開の場で吟味していくというものだ。
http://www.cao.go.jp/sasshin/kaigi/honkaigi/d1/pdf/s5-1.pdf

残念ながらそれを理解して批判や抗議をしている声明は少ない。

もちろん、科学技術を否定しているように聞こえたというのは、この仕分けの大きな問題点であり、それが、とくに若い研究者たちの気持ちをくじかせているのは重大だ。それは大いに言うべきだが、間違った認識で声明を出すのは逆効果かもしれない。

声明では、とくにこの一週間ほど、若手研究者を前面に出している。若手が首切られるから、その資金を切らないでほしい、という声が多く聞かれる。一説には1000人もの若手研究者が首切られるという。これは極めて重大な事態だ。

しかし、若手を短期雇用にするような構造をそのまま残すことがはたしてよいことなのだろうか。

また、なぜ予算が縮減されるイコール若手の首切りなのだろうか。

仕分けによって、予算を効率的に使え、というメッセージが与えられたが、予算を効率化して若手はなんとか守る努力をします、という声はあまり聞かれない(もし私の間違いであったら訂正してほしい)。

そして、若手の苦境を前面に出すほど、「社会はもっと厳しい」「今まで社会の情勢に無関心だったのに、いきなり助けろとは何事か」という反発を招く可能性がある。

これでは、予算と言う利権を守るために若手をだしにつかっている、ととらえられなえない。


今私たちは、研究利権を守るための予算減額反対ではない論理を打ち立てなければならない。

それは、未来の科学を担う若手を中心とした研究者を不安定雇用に置いてきたこの状況を変えるということではないか。

私は何も競争を否定しているわけではない。そもそも研究は過酷な競争の場だ。

しかし、あまりに不安定な環境だと、最初から競争に参加しない者が増える。

この数日、若手研究者の話を聞いて痛感した。今、学生たちは日本の科学に絶望し、大学院進学をやめようとしている。外国に行っても科学を続けるのなら、それは悪いことではない。しかし、研究という行為自体をあきらめようとしている学生が出始めているようなのだ(あくまで私の感覚であり、そうでないことを願いたい)。

それは、研究を文化と考える人たちにとっても、研究を国際競争力の源と考える人たちにとっても大きなマイナスなのではないだろうか。

そして、若者の不安定雇用は、研究だけの問題ではない。

ここに、立場を超えた人たちがつながる可能性がある。

立場を超えた人たちのネットワークを作り、目前に迫った若手研究者の解雇を回避し、知を大切にする、知が生かされる社会をつくるための礎を築かなければならない。

フランスは、2003年の研究予算減額に対する運動を「研究を救え」と名付け、国民を巻き込んだ運動を展開した。

今私たちは、「研究よ変われ」を旗印に、動き始めなければならない。

今回の討論会を踏まえ、現在メーリングリストで議論を続けている。
http://d.hatena.ne.jp/scicom/20091120/p3

問題は仕分けではない、私たちがどう変わるかということだ。変わることを恐れては、研究の明日はない。