科学・政策と社会ニュースクリップ

科学政策や科学コミュニケーション等の情報をクリップしていきます。

コミュニケーションを担うのは誰か

 この欄でも何度もお伝えしてきたが、震災後サイエンス・コミュニケーションが問われている。

 原発事故をどう解釈するか、放射線の人体への影響はどうなのか…

 こうした人々の「知りたい」という要望はまさに切実であり、今だにそれは大きな要望でもある。

 こんな中、重要な役割を果たしたのが、個人でボランティアとして情報発信を続けた、物理学者を中心とする科学者の方々だ。

 早野龍五氏のtwitterのフォロアーは2000人台から震災後に15万人に増えた。この他、野尻美保子氏、菊池誠氏、水野義之氏、伊東乾氏なども、フォロアーが万の単位に達している。

 それはウェブ2.0時代を表すものかも知れない。Twitterのようなツールを使い、科学者や専門知識のある人が情報を発信し、それが市民に伝わる。組織というより身軽な個人だから、状況に即座に対応できたのかもしれない。

 しかし、それを手放しで喜んでばかりもいられない。

 野尻美保子氏は、個人で1万人を超えるフォロアーに対応する精神的な重圧を述べている。
http://nojirimiho.exblog.jp/13571296/

TL上に表れる不安や疑問に答え,資料を提示し,現状でより優先されるべき事項について語っているあいだに,フォロワーの急増が始まった.直接mention(問いかけ)をされてきた方は,みなたいへん心配され,また怒っていた.このような状態は,一般には非常に危険である.これまでのTweetの流れを知らない人が多数参入することによって,フォロワーとの相互理解が低下し,ちょっとした一言をきっかけに多くの人の信頼を失う事例は多い.

一方でTwitterでの情報発信は,「個人店主」の成功によるものがほとんどであり, フォロワーが増えれば増えるほど,その負担が過重になっていくのである.

 発言は拡散し、記録に残るから、批判も受ける。

 牧野淳一郎氏は、Twitterで情報発信を続けた物理学者が、放射線の影響を少なめに見積もっていると指摘している。

http://jun-makino.sakura.ne.jp/articles/future_sc/note103.html#rdocsect191

 御用学者などというレッテルも、こうした情報発信をした科学者に向けられる。

 もちろん、批判は重要だろうし、ボランティアだろうがなんだろうが、発言に責任を持つのは当然だ。

 とは言うものの、こうした状況が続けば、情報発信を行うモチベーションがなくなっても不思議はない。やめても責めるわけにはいかない。

 震災直後から率先して情報発信を続けてきた菊池誠氏は

まともな科学者はすでにそういう反応に嫌気がさしてきて、象牙の塔に戻るつもりでいるから、これからは科学者を頼らずになんとかするということになるのでは

リスクコミュニケーションという分野があって、何か研究しているらしいので、そういう人たちがもっときちんと仕事してくれないと。科学者に「コミュニケーション」求めても無理ですよ。科学者はコミュニケーション能力でなっているわけではないからね。

と述べる。
http://togetter.com/li/144089

 リスクコミュニケーションも含め、科学者と社会をつなぐ媒介者に対する要望は多く聞かれるし、それが、リスクコミュニケーションの関連分野であるサイエンス・コミュニケーションにも向けられる。

 しかし、同様に「失望」する人は多い。リスクコミュニケーション、科学コミュニケーションは十分な役割を果たしていなかったと・

 私自身、サイエンス・コミュニケーションを掲げるNPOの代表であったこともあり、決して他人ごとではない。果たしてどうすればよかったのか、考え続けている。

 ただ、ふと考えてしまう。

 ボランティアやNPOとして情報発信を続け、その責任を負うというのは、野尻氏が述べるように並大抵のことではない。

 サイエンス・コミュニケーションを担う人達の多くは、ボランティアか、あるいはたとえ大学の職にあったとしても、任期付きの不安定な職に就いている。まさに社会が切実に求めていることを、こうした人達に依存してよいのか…

 これは「新しい公共」にも向けられる懸念だ。公共、インフラといった、人々が生きていくのに極めて重要なことを、ある種脆弱なNPOなどに任せてもよいのか…

 Twitter上で情報発信を続けた科学者が、大学や研究機関の教授、准教授であったことは、象徴的なことのように思う。もちろん、教授位の学識がないと情報発信ができない、ということでもあろうが、不安定な立場であったら、果たしてできたのか。

 「サイエンス・コミュニケーターは職ではなく役割である」と言われるが、もし、中間者が切実に世の中に求められているのなら、その必要性に見合うだけの地位や権限を、必要だと思う人達が与えるべきではないか…

 非常に厳しいサイエンス・コミュニケーター批判が多方面で起きているが、地位も名誉もなく批判だけある、そんな「火中の栗」を、自発的に拾いに行く人がどれだけいるのだろうか。それは「ないものねだり」ではないのか。

 とは言うものの、批判を含めて注目を集めているということは、そこに必要性があり、機会もあるということだ。

 ソーシャルビジネス、コミュニティビジネスが若い人達を中心に関心の的になっているのは、そこにやりがいなどの意義を見出すと同時に、それで食っていくということに対する充実感のようなものもあるのだと思う。

 ボランティア中心のサイエンス・コミュニケーションが脆弱さを超え、公共を担う存在になるためには、「飯を食う」ことにも向きあう必要があるのではないかとも思う。

 言うは易く行なうは難し。課題は山積だが、諦めずに道を探りたい。