科学・政策と社会ニュースクリップ

科学政策や科学コミュニケーション等の情報をクリップしていきます。

入試問題漏洩事件が明らかにしたもの

 まさか…しばらくしてとうとう…

 そんな気持ちだ。

 京大で入試問題が試験時間中にネットに書きこまれたという事件を聞いたときの感想だ。

 折しもその日、情報流出を扱った番組がNHKで放送されていた。
http://www.nhk.or.jp/tsuiseki/file/list/110226.html

 あらゆる情報が流出してしまう時代。そうは言っても、入試の事は頭になかった。寝耳に水だ。その後同じハンドルネームの人物が、複数の大学で同様の漏洩をしていることが明らかになっている。

 公正公平であるべき入試で不正をするなんて言語道断。そういう人が多いのはまず当然。もし自分が受験生だったら、そんな人達が自分を出しぬいて合格したら、悔しくてたまらないだろう。徹底的な調査が望まれる。

 ただ、それを前提として、とりあえず括弧にくくってみると、いろいろなものが見えてくる。

 まず、携帯電話が普及している時代に、何らかの不正が起こることを予想していなかったのか、ということ。カンニングはあの手この手で行われる。取り締まる側とのイタチごっこだ。あらゆる情報が流出する「メガリークス」の時代。起こりうる最悪の事態を想定していたかという、入試当局の姿勢が問われる。

 ウィキリークスチュニジアやエジプト、リビアなどの「Facebook革命」、今回の入試問題漏洩。同時期に起こったこれらの出来事は、同じ問題の別の側面をみているように思えてならない。

 いくら自発的に携帯電話をオフにさせたり、カバンにしまえ、と言ったところで、すべての受験生が従うかは分からない。受験生の「良心」に任せすぎていたのではないか。

 一件こういう事態が明らかになったなら、発覚していない不正がすでに広がっている可能性もある。また、この事件が報道されることにより、模倣する者が増え、大学入試はもとより、各種試験で同じようなことが行われるかもしれないし、試験にとどまらない、あらゆるものが流出を前提に考えないといけないのかも知れない。

 対策の手間やコストをどうするか、という問題は、大学のみならず、あらゆる組織が考えなければならない重い課題だ。

 これだけにとどまらない。この事件が明らかにしたのは、入学試験のあり方への疑問だ。

 つまり、知識の多寡を競うだけの入学試験でよいのか、ということだ。

 誰かに聞くことによって簡単に答えが出てしまうような知識を問う入試で、優れた人材が獲得できるのか、という疑問がわいてくる。東大や京大の入試は、知識だけでは解けない問題が比較的多いとは思うが…

 ただ、知識ではなく思考力を問う問題を作成するのは大変だし、採点にも時間がかかる。合否判定も楽ではないだろう。教育、研究、その他膨大な仕事に追われる大学にそれだけの余裕があるのか、ということも問われることになる。

 実社会では、記憶力よりも、どんな方法を使ってもいいから解答を出す力のほうが求められる。分からない問題をクラウド、群衆に聞いて答えを出す、というのは、ある種スマートな方法だ。Yahoo知恵袋に投稿したことを稚拙という人もいるが、不特定多数の知恵に頼れる上、群衆に紛れるという効果も含め「頭のよい」方法なのかも知れない。(私は今回の行為を肯定しているわけではないので誤解なきよう)。

 とは言うものの、最近の学生の「基礎学力」の不足が各方面から指摘されているわけで、記憶力を問う意見がすべて悪いわけではない。基本的事項を知らないと、思考もできないのだから、それを問うことも不可欠だ。要は入学試験の全体のさじかげんをどうするか、ということであり、各大学が持てるリソース(教授の雑用の多さをどうするかということも含め)知恵を絞らなければならない。

 ある種起こるべくして起こった事件。犯人を探し出して処罰するだけでは終わらない、大きな問題を我々に投げかけているように思える。