ノーベル化学賞を、日本人2名を含む3名の有機合成科学者が受賞することになった。
言うまでもなく、報道の大フィーバーだ。巻頭言で日本人のノーベル賞受賞をお伝えできる2回目の機会になる。
いろいろなことがすでに論じられており、食傷気味の方もいらっしゃると思うが、思うところを簡単に述べてみたい。
その1 過剰な報道?
言わずもがなの激しい報道の嵐だ。受賞対象の研究内容はさておいたような報道が多い。受賞者の人柄、出身地や出身高校の反応、受賞者の言葉、はては受賞者のペットや座布団?までありとあらゆるものが報道された。
何かに似ているなあと考えたら、大リーグの日本人選手の報道だった。試合結果より、イチローや松井がヒットを打ったか、が話題になる。
あまりに過剰な報道に、少々辟易してしまったが、ここはしたたかに考えたい。
科学記事というのは、他の分野の報道との兼ね合いで、わずかなスペースしか与えられないのが常だ。それをこの「ノーベル爆弾」は軽々と打ち破り、一面の巨大なスペースを科学の話題が占めることになった。
こんなことは、本当にめったにないことだ。いくら科学・技術に投資を、科学は大事といったところで、こんなには取り上げられない。
確かに、ノーベル賞に批判的になる人がいるのは理解できる。ノーベル賞はしょせん外国人が与えた賞、自分で評価できないのか、賞をもらうくらいなら賞をあげる国になれ、ノーベル賞をありがたがるのは、科学後進国だからだ、ノーベル賞は個人がもらう賞で、ナショナリズムに結びつけるな…
すべてその通りだろう。けれど、一般の人たちが、これほどまでに科学の話題を目にすることはないのだ。
科学コミュニティや科学コミュニケーションは、清濁併せ飲んで、これを利用するくらいのしたたかさがほしい。
一般市民や政治家と話をするとき、話のタネに使えるではないか。議論の材料になるではないか。そこから次につなげていけばいい。
ノーベル賞の研究が30〜40年前の研究であることや、今大学や若い研究者が置かれている状況は、とてもノーベル賞が出るどころではない状況であることなどを丁寧に説明していきたい。
このままいくと、40年前の「花形分野」に若い人や受験生が集中するということになりかねない。ノーベル賞を科学全体への関心につなげ、その気持ちを多彩な分野に振り向ける丁寧な取り組みも不可欠だ。
ここは、科学コミュニティ、科学コミュニケーション関係者に奮起を期待したい。
その2 神格化にはノーを!
ただ、確かに科学コミュニティや科学コミュニケーションにとっては追い風のノーベル賞だが、注意しなければならないことがある。それは、前にも述べたが、「ノーベル賞受賞者」が印籠のようになってしまい、無茶苦茶な発言でも「ノーベル賞受賞者が言っているならそうなんだ」となってしまわないかということだ。
ノーベル賞受賞者が、自分の専門以外の分野、特に教育問題に、まるで素人のような、あるいは個人的経験に基づく発言をしたとしても、それが力を持ってしまう例がすでにある。
ノーベル賞に対する世間の注目を利用することと、ノーベル賞受賞者の発言が独り歩きしてしまうことのバランスは、ある種もろ刃の剣で、正直言って難しいかもしれない。けれど、ノーベル賞受賞者の発言を絶対視する「神格化」にはノーといいたい。
その3 報道を評価せよ
ノーベル賞をめぐる報道の中には、研究内容と関係ないだろうと突っ込みたくなるものもあったが、今の研究体制の問題点を指摘する鋭い報道もいくつかあった。
だから、一律に「マスゴミ」などと、十把一絡げに批判するのではなく、報道内容を丁寧に検証し、良いものは評価するといったことも必要だろう。
これに関連するが、科学コミュニティとメディアの関係ももうちょっと緊密にしたほうがいいと思う。
すでにブログでふれたが、
http://d.hatena.ne.jp/scicom/20101007/p1
こういう突発事態のときに、スムーズに専門家や解説者を紹介できるような体制を築きたい。
その4 大学広報を評価せよ
大学にとっては、卒業生や教授にノーベル賞受賞者が出るということは大きいことだろう。それゆえ、北大などの広報は、大変忙しい日々を過ごされたことと思う。
大学は、人々の「知りたい」という欲求が高まったときに、はたして適切な情報を提供できているだろうか。広報担当者のみならず、私たちもユーザー目線で、今回のノーベル賞の広報の在り方を振り返り、評価していくことが必要のように思う。
以上、ざっと書いてみた。
前に書いたように、ノーベル賞は劇薬だ。日本は、まだまだこの劇薬とうまく付き合うすべを身につけていないように思う。ノーベル賞受賞者がそこらへんにごろごろいるようにならないと、それは難しいのかもしれないが、今回の「騒動」を振り返り、今後の糧としたい。