科学・政策と社会ニュースクリップ

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競争的資金から奨学金を考える。

 5号館のつぶやきに、「競争的資金から奨学金」という記事が掲載された。

 発端は教育再生会議が競争的資金から奨学金を出すことを提唱したという記事に対して、つぶやきさんが懸念を表明されています。

 私なりにつぶやきさんのポイントをまとめてみますと

1)競争的資金を獲得した大学の大学院生だけに、返還しなくて良い奨学金が配分されることは問題あるのではないか

 競争的資金の配分は「くじびき」のようであり、学生間に不公平感が生じるのではないか

 学生の評価をせず、運が左右するような形で資金配分されることに問題がある

  学生の評価に基づいて給費を与えるべきで、競争的資金から出すべきではない

2)途中で打ち切られたり、配分されると思っていてもされないということもあり得るのではないか(不安定)

3)大学間格差がますます増すのではないか


 コメント欄にも書きましたが、あらためてスペースを使って、この問題を考えてみます。

 私は、この案を好意的にとらえました。もちろん、メルマガの編集後記にも書いたように、思いつきのように案を出してくる教育再生会議は問題があると思いますが、それはそれとして、この案は評価したいのです。

 その理由ですが、まず挙げたいのが、大学院生の経済援助の手段が増えるということです。

 私は、もしも大学院生が日本(あるいは世界)の科学技術の発展に将来寄与する重要な人材であると国が思っているのなら、大学院生の家庭状況に関係なく、優秀な(何をもって優秀とするかはおいておきます)人材に大学院に入れるような施策が必要だと思っています。

 今、大学院生の経済源は、親の仕送り、日本学生支援機構奨学金日本学術振興会特別研究員(学振)、授業料免除、その他だと思います。

 給費制なのは学振のみで、その率は10%程度といわれています。第三期科学技術基本計画では、給費制の奨学金を20%程度にすべきとの提言をしています。

 今回、競争的資金から給費制奨学金が出せるようになるのなら、選択枝が増えることになります。

 現在人材獲得競争は、業種間を越え、国境を越えています。一時期ほどではないといえ、理系の成績優秀者が医学部に流れたりしている状況を考えると、自腹を切らないと研究者になれないのでは、たとえ研究者になりたいと思っても躊躇する者がいるでしょう。

 企業なら、給料やお金を人材獲得の手段として使っているわけで、研究者の人材獲得だけお金を禁止するというのは、人材獲得競争において不利になる可能性があると思います。

 また、昨今給費を出すアメリカの研究室に行くという学生の話をちらほら聞くようになっています。911後のビザ問題などがあり、以前ほどではありませんが、アメリカなどではまだまだ外国の優秀な学生を惹きつける魅力があるようです。

 中国やインドの理工系大学の人材獲得合戦がNHKなどで報道されていますが、優れた学生にはさまざまな経済的得点をつけるのが当たり前のようです。やや過熱気味という感じがしないではありませんが、人材獲得の国際的競争時代に、経済的な特典を提示できないのでは、かなり不利になるのではないかと思います。

 もう一点、評価したいのは、給費を払うことによって、学生を「研究システムの一部を構成する重要な人材要素として取り扱」うことを示すのではないかということです(澤 明裕 「科学技術政策と人材育成」 北垣、赤堀編 科学技術時代の教育 ミネルヴァ書房 2007年)。

 今まで日本では、博士課程を中心とする学生を、あくまで学部学生の延長線としてみなし、金を払わなくてよい労働力としてみなす傾向が強かったように思います。

 指導教員は、教育や指導の名の下、雑用も含めさまざまな仕事を院生にさせてきました。院生の位置づけが曖昧なために、何をどこまでするのか、という点が曖昧なまま、なし崩し的になっていたのが実情なのではないでしょうか。

 もし指導教員が、自ら獲得した競争的資金から院生に給費を支払うことになれば、いわば「身銭を切る」ことになるわけですから、獲得した院生の働きぶりや成長に真剣にならざるを得ませんし、院生は今まで無給でなし崩し的に行ってきた雑用等の仕事に対価を要求できるわけです。曖昧な師弟関係に埋没させていた諸問題を明らかにすることにつながると思います。もちろん、金出してやるんだから、働け、という横暴もあるかも知れませんので、注意は必要です。

 一方で、つぶやきさんの指摘も理解できます。

 競争的資金の配分がどうも公平でない、という指摘はありますし、ある特定の研究者に資金が集中する傾向はまだまだあるように感じます。

 たまたま金を持っている研究室が、人材まで根こそぎ持っていくのではないかという懸念はあるでしょう。がんばっている学生に報いたいが、お金がない、という教員が出る可能性はあります。

 競争的資金配分が乏しい分野の人材育成に難が出るかも知れません。

 そういった点は修正する必要があるでしょう。イギリスのwellcome trustのように、給費制資金を配分する機関が必要のように思います。

 日本学生支援機構がこの役割を果たすとよいと思いますが、給費制資金を大学院生に払う社会的合意が得られていないのが難点です。このあたりは、大学院生の能力と社会の求める能力のギャップの問題にもつながります。すぐに解決することは難しそうです。

 日本学術振興会特別研究員制度は、採択率が10%しかなく、現実的な選択ではありませんが、私たちが大学院進学ガイドで調べたように、大学院間の格差が予想以上にないのが救いです。

 ただ、学生はお金だけで進路を考えるほど、無知な存在ではないと思います。現に既に理工系の院生になるという選択をしただけで、他分野に比べれば経済的成功があまり見込めないわけです。お金だけでなく、希望も含めてさまざまな条件を考慮して進路選択がなされるわけです。

 学生を評価した上で資金を出すのがよい、という案ですが、学生の選抜もある種の評価で、評価をいつするかという違いはあれど、お金をだす点で同じように思いますし、学生の働きぶりを評価して資金を出す、出さないを決めるとすれば、大学院生活を送る資金の目処を別にたてて、あくまでもらえればラッキーのボーナスとして資金をもらうということになってしまい、学生の進路選択を増やすことにはつながらないように思います。

 また、評価を誰がどうするのか、という問題もあり、言うことを聞かないとお金を出さないぞ、という圧力として使われてしまう可能性もあります。それならば、入り口のところでお金を払う、と決めてしまったほうがよいように思います。

 資金が途中で切れてしまうといった点については、事前の情報公開などが必要でしょう。

 最後に、大学間や研究室間の格差をどこまで容認するか、という問題ですが、これは確かに問題です。全てを競争的にすることも、全て平等にすることも、極端すぎます。競争はインセンティブにもなりますし、一方で不正の温床にもなります。どの程度の競争にすべきか、難しい問題ではあります。

 地方大学を中心に、存続が極めて難しくなっている大学も多いわけですが、大学というものの存在意義を根本から考え直す時期にきているように思います。

 以上、まとめると、競争的な資金から奨学金を出せるようするというのは、制度を大幅にいじらなくても実現可能なように思いますし、考慮に値するのではないかと思います。

 もちろん手放しで喜べるわけではなく、さまざまな問題もはらんでいますから、じっくりと議論していくことが必要でしょう。