科学・政策と社会ニュースクリップ

科学政策や科学コミュニケーション等の情報をクリップしていきます。

そこにある問題に気がつくために

みわよしこさんから先週の編集後記に再びコメントをいただきました。

ご紹介ありがとうございます。往復書簡化しそうですね。私の方は大歓迎です。

おっしゃるとおり、格差化が非可視化され、分断に至っていること、私も感じます。
私が小学校に通った福岡県のその自治体は、今は完全に福岡市のベッドタウンです。
小学校時代は、見渡す限り一面が水田と畑だったのですが、現在は見渡す限り、家とマンションばかりです。今や自治体内に、水田は一枚も残っていないとか。
風景が変わると同時に、小学校の教室の中にあった格差も見えなくなりました。
その格差は、「地域で住み分かれる」という形で残り、定着してしまいそうです。
生活保護のリアル」で「江戸川中3勉強会」についてレポートした際、中学教員をやっている自分の友人・真弓(仮名)のエピソードを紹介しました。
http://diamond.jp/articles/-/23352
もちろん、このエピソードは(どこの誰だかわからないようにボカしてはありますが)実話です。
同じ福岡県内で、そういう地域と、経済的に比較的余裕のある層が多く住む地域が分断されてしまい、互いに見えなくなってしまっているのが現状です。似たような状況はどこにでも見られますね。
非可視化されてしまっている分、現状はさらに問題が深刻になっていると感じています。

何か対策をするなら、まず、見えなくなった人々の姿を見ることから始めるべきだろうと思います。
見えたら次に、関係を作り、話を聞くことができるだろうとも思います。
姿が見えづらく、自ら語ることをしないサバルタンは、よく見れば社会のあちこちにいます。今ならまだ、その姿を見ることができます。

姿が見えなくても、なぜそこにいないのかを推察することはできます。
とりあえず、お近くの公園や駅周辺で、ベンチを観察してみてください。
上で横になれるベンチは残っていますでしょうか?
こちらのブログエントリーに、1987年の外堀公園(東京都千代田区東京理科大と法政大のすぐそば)で撮影したベンチが写っています(猫話ですみません)。
http://d.hatena.ne.jp/neko-yashiki/20120820#p2
現在、このような、上で大人一人が横になれるようなベンチは、東京23区内では、非常に少なくなっています。
ホームレス「対策」として、なくされてきたからです。
しかし、ホームレスがいなくなったわけではありません。では、どこに行ったのでしょうか。
そういうことに想像力を及ぼしてみることからしか、分断されて自分の世界から消えた人々を「見る」ことは始まらないと思います。
公園のベンチ一つも、そういう想像を及ぼす手がかりにはなりえます。

他にも、その気になって探せば、手がかりは街のあちこちに隠れています。
ホームレスは究極の貧困というべきでしょう。まだ、私たちは、その究極の貧困の姿を街の中で見ることができます。
見えなくなってからは、手遅れだと思います。

 おっしゃること同感です。

 私達は、経験でものを考えてしまい、また、先入観でものをみてしまいます。そうしないと膨大な情報が流れる世の中をうまくやっていくことができないからだと思います。

 目に入るもの、イコール見えているものではないわけですね。

 例で挙げてくださったベンチのように、あるいは道の凸凹や段差のように、あるのに見えていないものはたくさんあります。

 そして、そうしたものは、ある時目に飛び込んできます。自分が切実に必要としたとき、自分が体験したときに…

 自分が妊婦になったら、街を歩いている妊婦さんが目に飛び込んでくるようになった、といった話もそれと同じです。

 では、経験しなかったら永久に分からないか、というと、そんなことはありません。人間には想像力があります。

 確かに、津波を経験した人でなければ、あの恐怖は分からないかも知れない。肉親や大切な人を失わないと、その悲しみは分からないかも知れない。

 けれど、想像することはできるわけです。そして何とかしなければならないと行動はできる。

 そこに問題があることに気づき、問題を問題として認識するためには、広い視野を持たなければなりません。クラスタ化しがちな情報源や人間関係を超えて、多様な人と交流しなければならないと思います。

 研究者も医者も、似たようなバックグラウンドの人が集まりがちですが、そこは意識してかき乱さなければならないと思います。多様性こそが重要なのだなと改めて思います。