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福島「全ゲノム解析」に異議

SSAの片木りゅうじ氏に緊急で執筆していただきました。

 8月31日産経新聞Webにて、驚くべき報道が掲載された。「福島で「全ゲノム解析」 被曝調査で環境相表明」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120831/dst12083100360000-n1.htm

 記事によれば、東京電力福島第1原発事故の被爆による遺伝子への影響を調べる為に、福島県民、特に子供を対象として、政府主導で全ゲノム解析をおこなうという。政府・民主党の細野大臣の発言だという。これは全く科学的妥当性が認められない検査であり、また福島県民に対する風評被害をさらに助長させうる危険性を孕む可能性も否定できない。仮にこの報道が事実であるならば、政府・民主党は経済や安全保障の問題のみならず、科学においても手痛い失策を重ねることは免れないであろう。

 全ゲノム解析とは、私達の体を構成している細胞を取り出し、その中にあるDNA分子の配列をすべて読み取ってしまうことをいう。一つの細胞には約30億塩基対のDNAが1セット存在するので、合計で60億塩基存在する計算になる。これだけの数の配列をすべて読み取るのに使われるのが、次世代シーケンサと呼ばれる最先端の検査機器である。来年市場に登場予定の新型機器を用いれば、1000ドルのランニングコストで全ゲノム解析ができてしまうという。以前に比べれば、ゲノム解析は非常に身近になったといえよう。では、これを用いれば、原発事故の被曝による遺伝子への影響を調べられるのであろうか。結論から言うと、それは不可能といえる。

 がんの研究などでは、次世代シーケンサは癌細胞のDNAの変異を検出するのに広く使われている。広範囲に増殖したがん細胞は、解剖的所見も明らかで、細胞の数も多い。細胞の採取も容易であり、同じがん細胞由来の組織を大量に入手することが可能だ。これを次世代シーケンサで調べれば、そのがんを引き起こしたDNAの変異を特定できることが期待される。精度の高い装置を使えば、存在比率が0.1%しかないような、少ないDNAの変異も特定できる可能性はある。しかし、逆に言えばこれ以上少ない存在比率のDNAの変異をとらえることは原理的に不可能である。次世代シーケンサのDNA解読の精度は、どんなに良くても99.99%でしかない。大量の正常細胞に埋もれたがん細胞のDNAの変異を、検出できると信じる科学者はいない。

 一人の成人を構成する細胞の数は、約60兆個もある。健康な人の全ゲノムを調べるのに、60兆個の細胞を全て使うわけにはいかない。せいぜい、血液サンプルの一部か、ほっぺたの内側から採取する少数の細胞でしかない。この細胞を使えば、たしかに全ゲノム解析は可能である。だが、それはあくまで血液の一部か、ほっぺたの内側の細胞の一部でしかない。一体、この細胞のどれだけに遺伝子の変異が蓄積しているというのであろうか。ましてや、がんを発病しているわけでもない。仮に、この一部の細胞にごく稀にDNAの変異が認められたとしても、それは統計の誤差の範囲に埋もれてしまう。1万人の子供を調べたとして、仮に2人の子供のDNAに変異があったとしても、科学的に言えることは何もない。つまり、この研究をおこなう妥当性は全く認められない。政府が何の説明もなくこの研究を続けるというのであれば、それは国民から見れば、61億円という公金をまるでどぶに捨てるような行為にしか映らないといえよう。

 もうひとつ、大きな問題がある。ゲノム解析を行うことに対する、風評被害の拡大が懸念される。前述したとおり、全ゲノム解析原発事故の遺伝子への影響を調べることはできない。しかし、全ゲノムを解読された子供達の、生まれつき持っていたDNAの変異については情報を得ることができる。そもそも、私達のゲノムの配列は個々人で異なるもので、いわば指紋の模様の違いのように、個人の個性を決めるものである。病気の原因になるようなDNAの変異も知られてはいるが、実は病気との因果関係がほとんど分からないDNAの変異も多数存在する。その数は、なんと数百万個とも見積もられている。つまり、誰かの全ゲノムを解読すれば、他の誰かとは違うDNAの変異は必ず認められるのである。これは、今回の件で何を意味するだろうか。

 福島県医大の研究者は、県民、そして子供達の全ゲノムの解析をすれば、それを必ず論文等の形で報告するであろう。放射線の影響については結果がでないことは明白であるから、個々人のゲノムの違い、つまりゲノムの個性について論じる報告になるであろう。もちろんこれは純粋に科学的な研究に他ならない。しかし、それを見聞きしたマスコミ、あるいは放射線被ばくについて過剰な危機感を抱く市民はどういう反応をするであろうか。「やはり、福島県民のDNAは変異していた」そんな見出しが新聞の一面を飾らないと、誰が言えよう。本来、政府はそのような風評被害が拡大しないような配慮をしなければならないはずだ。しかし、今回の政府の対応はその真逆であるといえる。

 今回の報道は、そもそもその情報源が正しいのかどうかは判断できない。また、政策・政治判断というものは、一つの側面だけで議論できるものではなく、様々な状況を総合的に判断して行われるものである。例えば、「日本国内でゲノム科学を推進したい」という政府の思惑が別にあり、総合的に判断して今回のような政策を政府が打ち出した可能性もある。本論では、産経新聞の報道をもとに、この政策を一つの側面から批判したが、もっと別の見方もあるかもしれない。果たして、政府・民主党は我が国の科学政策を担える存在なのであろうか。問われているのは、有権者なのである。

【追記】関連情報

上昌広氏のFacebookのコメント
https://www.facebook.com/masahiro.kami/posts/3135188117682

科学と生活のイーハトーヴ
Seeking for Ihatov – Utopia – of Science and Life
福島における「全ゲノム解析」について、細野環境大臣に質問
http://blog.ihatovo.com/archives/5245