科学・政策と社会ニュースクリップ

科学政策や科学コミュニケーション等の情報をクリップしていきます。

科学コミュニティは今何をしているか

 数日前のブログで、今はまず市民としてできることを、と書きました。その状況はまだ変わっていませんが、原発事故もあり、様々なことが同時に起こっています。

 こうした中、科学コミュニティ、あるいはサイエンス・コミュニケーションは何をしているのか、何をすべきなのか気になります。

 人の生命に関わるタフな状況、流言や不確実な情報が飛び交う状況のなか、少しづつですが、動きも出てきました。

 一般社団法人サイエンス・メディア・センターは情報を出し続けています。

 twitter上では、早野龍五氏(東大)、東大病院放射線治療チーム伊東乾氏(東大)などが情報を提供しています。

 facebookでは、まだ参加者は少ないようですが、全国研究室状況報告ページが出来ています。

 この他、researchmapに「東日本大震災に関する大学等からの連絡」というページが出来ています。

 各研究施設や研究グループもいろいろな動きをみせています。全体を把握しきれていませんが、以下のような感じです。

 NPOなどの動きとしては、原子力資料情報室の活動が圧倒的で、政府発表からはうかがい知れない情報を、科学的知見に基づいて発信しています。

 日本科学者会議緊急アピール東北地方太平洋沖地震を契機とする福島原発の炉心損傷事故についてを発表しています。

 医療関係では、多数の団体や個人が動いています

 こんななか、日本学術会議が3月18日に緊急シンポジウムを行うという連絡が入ってきました

 今、科学コミュニティは、社会から非常に懐疑的な目でみられています。「御用学者」という言葉があらわすように、社会に必要な情報をきちんと伝えてきたのか、という厳しい目です。

 政府が情報をすべて公開していないという問題はありますが、海外メディアや、海外科学者団体のほうがきちんと情報を伝えている、という意見は、深刻に受け止めなければなりません。

 アメリカの科学者団体である憂慮する科学者同盟は、原発問題に対して声明や情報提供などを精力的に行なっているようです(こちら)(報道もされています「放射性物質は東京まで達する恐れ=米科学者団体」)。


 個人のtwitterでの発信や、各種NPOの発信は、非常に重要だと思いますが、まだまだ質量とも足りません。これを非常時だけでなく、常に行えるような組織がもっと増えないといけません。

 なにより、「御用学者」という批判を払拭するためには、独立した科学者集団、あるいは市民科学者の存在が不可欠になります。

 日本学術会議は、本当の情報を知りたい、という社会からの切実な声に答えられるでしょうか。

 それは学術会議だけの問題ではなく、私達が目指している、分野横断的な科学者団体が切実に求められているということでもあり、他人ごととして突き放すわけにはいきません。

 現在、研究者ネットワーク(仮)のFacebookページなどで私達も議論を行っています。議論だけでなく、早急に形にしなければなりません。


 最後に、著書「博士漂流時代」にも引用した、二つの文章を引用します。今、この言葉をかみしめ、これを具体化しなければなりません。

情報化社会の理想は、多様で正確な情報が、いつでも、自由に手に入れられることなのだが、日本の現実はそれからはるか遠い状態にある。メディアがメディアを引用し、ネタ元が同じと思われる情報が、大量に表層を流れているだけである。落ち着いてわれわれの到達点を点検し、将来にむけて考察をめぐらすためには、個々人が切実に必要と思ったときに、ハードな科学情報が有用な形で入手できないといけない。そのための供給システムは、古臭い「科学啓蒙」のイデオロギーから抜け出していなくてはならない。専門家だからという理由で、利害当事者である科学者に情報を汲み出す作業をまかせきるのではなく、科学研究に共感をもちながらも、これを突き放した中立的な視点から科学論文を読みとく読み手を、社会の側が確保することがぜひとも必要である。そして正確で、公平で、安定した自然の姿がわれわれの間で共有された後、そこに共通の意味体系もおのずと浮かびあがってくるのであろう 。(米本昌平「クローン羊の衝撃(岩波ブックレット No.441))

研究という基本的権利を、いまほとんどの人は職業研究者に託している もしのこの権利を個々人が自ら行使しようとしたらどうなるか 科学のあり方、大学のあり方に根本的変化が生じてくるに違いない。
この種の個人の研究活動が組織化されれば、既存の権威を監視しチェックする知的なNGO(非政府組織)として重要な社会的機能を担うことになるだろう。
面白がりながらも切実にこつこつと研究活動を続ける知的な市民が、自ら問題を発掘し、研究調査し、解決策を模索していく形こそは成熟した民主主義社会における政治参加の理想形だと思う。(米本昌平中央公論1999年4月号「知価社会を実現するために―投資としての研究・浪費としての研究」」