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書評 水月 昭道著 ホームレス博士 派遣村・ブラック企業化する大学院 (光文社新書)

ホームレス博士 派遣村・ブラック企業化する大学院 (光文社新書)

ホームレス博士 派遣村・ブラック企業化する大学院 (光文社新書)

目次
 第一部:派遣村ブラック企業化する大学院
 第二部:希望を捨て、「しぶとく」生きるには

 著者の水月さんよりご献本頂いた。御礼申し上げる。

高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

 にて、大学院、博士号取得者の惨状を世に知らしめた水月さんの新刊。

 それから3年、さらに深刻化する博士を取り巻く現状を、当事者の視点から鋭く描く。

 第一部で描かれる状況は、目を覆うほど深刻だ。全く評価されない博士号。運で決まる正規雇用テニュア)と非正規(ポスドク、非常勤講師)の差、雇い止め…食べ物がなく、文字通り喰うに困った知人の博士が、著者に救いの電話をかけてきた状況をみると、「ホームレス博士」がどこかに出現してもおかしくないと感じる。ただ、著者は実際にホームレスになった博士を見ていないようだが…

 ここで語られるのは、自己責任では説明できない理不尽な現実。批判の矛先は、博士問題を生み出した元凶の文部科学省と、既得権に胡坐をかく常勤職の研究者に向かう。

 このままでは、この国に失望した博士たちが、反社会的な行動さえ取りかねない。

 こんな状況だが、著者はわずかな希望を見出す。

 2009年暮れの事業仕分けで、「若手研究者支援事業」が縮減の裁定を下されたときに起こった、若手研究者自身の抗議運動。どんなに悲惨な状況にあっても、正規雇用を得るためには、声をひそめざるを得ず、一方的に搾取されてきた当事者である若手研究者が、ついに声を上げ、立ち上がったのだ。

 当事者が声を上げ、行動を起こさない限り、事態は変わらない。誰かが何かをしてくれるなんてありえない。

権利は主張することなくして手に入れられる程度の“軽い”ものではない。手にしたければ、どんなに嫌でも、声を出す他ない。それが正しい民主主義の姿なのだ。

 まだデモも暴動?も起こらない、非常にささやかな段階であり、水月さんはもどかしさも感じているようだが、それでもそこにしか希望はない。そして博士が行動することは、社会にとってもプラスだという。

追い詰められた博士たちは、ついに自らの足で立ち上がろうとしている。それは、社会にとっても決して悪いことではないはずだ。なぜなら、彼ら(ノラ・野良)博士たちは、四面楚歌の寂しさ、苦しさ、切なさを深く我が身に刻みつけ、世の痛みに思いをはせる能力も磨かれた。これからはきっと、本当の高学歴者たる存在感で、社会の諸問題にもチカラを貸してくれるはずだ。

 事業仕分けで盛り上がった博士たちの行動は、嵐が過ぎ去ったのか、今はひっそりしている。わずかな希望の芽が、育っていくのか、摘み取られてしまうのか。まさに瀬戸際だ。

 第一部の最後で、水月さんはさらりと、ひっそりと問題の核心に触れる。

教育業界に限らず我が国の成長神話はすでに多くの分野で完全に終わっている。楽しかった夏の思いでにそろそろサヨナラを告げ(終身雇用・年功序列等にも)、賃下げ・同一労働価値同一賃金という現実的選択肢を「考える」時が来ている。

博士問題は他を代表して、新しい時代に適応して“全員が”等しく生きるための「“扉”を開く覚悟を持っていますか」と、現代日本人すべてに迫っているのである。

 アカデミアの中に身分の差が出来てしまうのも、博士が社会の中に居場所を見いだせないのも、終身雇用、年功序列に代表される日本型雇用システムが大きな要因の一つにあるのではないか。ここに手をつけないで、博士の能力を高めたり、持参金を持たせても意味がないのではないか。

 実は水月さんが一番言いたかったことはこれなのではないか。これを言うことは、常勤雇用(テニュア)の教員のほとんどを敵に回すことにつながる。水月さんはアカデミアで生きる希望を諦めていないので、声を大にしていえなかったのではないかと邪推してしまった。

 第二部は、パチプロで食っていた時代が、「高学歴ワーキングプア」の出版に間接的に影響を与えたこと、水月さんの研究テーマでもある、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんたちとの交流から感じたことが語られる。命の瀬戸際でも希望を失わない患者さんの生き方は、博士の心の在り方に重要な示唆を与えてくれる。

 就職先がずっと見つからない(大学に「ご縁がなかった」)場合、どうすればよいか、という博士の問いに対し、水月さんは「それもあなたのご縁(道)なのです」と答えるという。

 それは、諦めてしまうことではない。なぜそのような縁があったのかを考えることが重要だという。

どうやら、仏さんは、深い思いやりをもって、人々に苦しむご縁を与えてくれたみたいだ。だからそれは喜んでいいはずだ。
 なぜなら同時に、大きなチカラをもくださったからだ。知って納得できるように、自分が何者であるのか、どうしてここにいるのかを見つけ出せるように、「苦しむチカラ」を持たせてくださった博士たちには、学びの究極にまで行く道すがら、それを手にしたのだが、使い道を忘れてしまっていたようだ。
 さて、苦しんだ果てに、私たちは何をすればよいのだろうか。確たる答えを導く「サバイバル」の武器はすでに一人ひとりの手にある。
 混迷の時代である。嘆いてみても何も変わらない。少なくとも博士問題はそうだった。だとすれば、新しい時代を切り開くチャンスとして、「苦しむチカラ」を存分に発揮したらどうだろうか。自分のために苦しみ、世のため人のためにまた悩んでみる。行動してみるのもいいかも知れない。

 苦しみ考え抜いた先に「使命」が見える。自分の身に降りかかったご縁は変えられない。けれど、ご縁をどうとらえ、どう行動するかは各個人にかかっている。博士の問題がこれで解決するわけではないが、苦しみの中にいる博士の心に一筋の光明を与えてくれる。

 最後に、水月さんと今をときめく社会学鈴木謙介氏との対談が掲載されている。鈴木氏は水月さんの福岡大学附属大濠高等学校の後輩にあたるという。さりげなく司会が荻上チキ氏というのも、なかなか贅沢な対談だ。

 鈴木氏が時折、あえて(かどうかわからないが)世間の常識的な観点から、高学歴ワーキングプア問題について批判的な意見を述べており、それゆえ何が問題があるのかが浮かび上がってきている。

 以上、非常に共感を持って読んだのだが、疑問も感じた。

 大学院重点化やポスドク1万人計画を実行した文部科学省がすべての元凶という「史観」は、単純すぎないかということだ。

 博士の数は1960年代以降増え続けており、70年代後半から80年代にはオーバードクター問題が話題となった。大学院重点化より前だ。

 また、博士が苦境に置かれているのは、日本だけではない(たとえば
博士課程学生とポストドクターの 養成方策について 筑波大学教授 小林信一

物理と社会シンポジウム「物理学会キャリア支援活動の総括と今後の展望」
小林 信一 (筑波大学大学院ビジネス科学研究科 教授) 「学会への苦言」
など参照)。

 世界中で「学歴難民クライシス(ニューズウィーク)」が起きているのはどうしてか。それを考えないで、文部科学省の利権だけがすべての原因だというだけでは、問題の本質に迫れないように思う。

 ただ、日本での博士問題が、諸外国に比べて異なった様相を示しているのは事実だ。社会の各層に博士がいる欧米と日本の差は何か。そこにこの問題を解くカギがあると思う。

 本書を読み進めながら思ったのは、水月さんはじめ、博士がアカデミアに何らかの形で強いこだわりを示すのは、背後に一つの大きな問題があるのではないかということだ。それは、研究をするという、人類の持つ基本的人権米本昌平氏)を、大学、研究機関が独占しているという事実だ。

 非常勤講師など、どんなに細い糸でも、アカデミアとつながっていたい、それが切れたらこの世の終わりだ…そう思うのは、アカデミアの外では研究ができないからだ。

 いったん外に出ると、図書館にも入れない、文献も読めない、研究費も得られない…そう思っているから、博士はワーキングプアになっても大学に関わるのではないか。

 もし、アカデミアの外でも研究ができるのなら、無理して非常勤講師だけで食っていく必要などない。もうちょっと割のよい仕事を見つけ、生活できる体制を整え、余暇で研究するという道も出来る。

 大学が非常勤講師などで博士を安く買いたたくのも、博士の足元を見ているからだ。あんたら大学に居たいんでしょ、だから安くてもいいでしょ、と買いたたかれているのだ。ひどい条件でこき使っても、あんたらボイコットなんかできないでしょ、と軽く見られているのだ。

 これも、もしアカデミア以外で研究ができるのなら解決する。そんなひどい条件なら行きませんよ、という交渉ができる。

 社会に出たら、研究なんかできない…そう思うのも無理はないが、環境問題などでは、市民が論文を読みこなし、大学ではできないハイレベルな研究を行ったりしている。

 今後オープンアクセス化や、図書館や大学施設の市民への開放などが進めば、社会のなかでもっと研究がしやすくなるかもしれない。

 ワーキングプアに身をやつしても博士が研究にこだわるというのは、人がいかに知的探究心を持っているかということをよくあらわしている。何がなんでも研究がしたい…それは諦めが悪いとかわがままと批難すべきことではない。人類が人類たるゆえんでもあるからだ。この大きな脳を、研究せずに満足させることはできない。

 そうした知的探究心を、たとえば科学と社会が衝突して生じている問題〜環境、生命倫理、食の安全など〜に向けたら、社会にとっても利益になるのではないか。

 そういう意味でも社会がアカデミア以外に論文を読み、研究が出来る人材を抱えることは重要であり、アカデミアに関わらず研究ができる体制、インフラを整えることが、博士の問題を社会の利益に転換するために必要なのではないか。

 やや本書の趣旨とは離れてしまったが、そのようなことを考えさせられた。

 閑話休題

 本書は、著者の当事者としての視点と、仏教者としての俯瞰とがあわさり、悲惨さを強調するだけでなく、また、他人事のように評論するだけでもない、稀有な本になっていると思う。

 賛否両論を巻き起こすと思うが、いずれの立場でも、この本を避けて通ることはできない。

 正直この問題は、語りつくされた。あとは行動あるのみだ。本書が、当事者や政府、社会に行動を促すことを心より願う。