科学・政策と社会ニュースクリップ

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若手とは誰か 世代対立をこえて


 3月20日に開催された、総合科学技術会議、科学技術政策ミーティング

 ここで私が訴えたことは、科学技術政策に若手の意見を取り入れてほしい、ということだった

 ポスドク問題。東大教授の停年がどんどん伸ばされ、大学院重点化で若手のポストは削減。しかも若手のポストは任期付き。非正規雇用の研究者があふれた。

 独立の問題。長い下積みを経て、教授の言われるとおりに研究、雑用をこなし、ようやく自分の力で研究できるようになったのに、研究者としてのピークを超えていた。

 研究費の問題。有力な、と言っては聞こえがいいが、リタイヤした研究者が配分を決めている。分野間の研究費配分は陳情、つまり声の大きな研究者の意向に左右される。

 こんなのおかしくないですか?

 もっと若手の生の声を取り入れなければ、科学・技術は悪い方向に行きませんか?

 「オープンでフラット」な科学・技術政策にしないと、この国は持たないのではないですか?

 どうやら、少しずつではあるが、変わり始めている。総合科学技術会議は、概算要求の優先度決定に、若手の意見を参考にすることを決めたという。

優先度判定に若手研究者の意見取り入れ

科学技術政策:予算配分に若手の意見

対象は、現在選考中の若手研究者向け新規事業「最先端次世代研究開発支援プログラム」に応募した5618人のうち、1次選考を通過した約500人

  日本学術会議も動き出している。

若手アカデミー活動検討分科会の委員候補者の公募について
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/wakateacademy/pdf/bosyu.pdf

日本学術会議では、現在、若手の研究者によるアカデミー活動の振興を重要な課題として位置付け、そのための取組みを進めています。
具体的には、昨年6月に、幹事会の下に「若手アカデミー委員会」を設置するとともに、本年5月には、同委員会の下に、若手の研究者によって構成する「若手アカデミー活動検討分科会」を設置し、日本における若手アカデミー活動の可能性を多角的に調査研究し、今後の若手アカデミー活動の具体的な計画の検討を開始しました。
現在、同分科会には4名の若手研究者が委員として参画していますが、更に委員の拡充を図る必要があり、以下のような活動を若手アカデミーとして独立して行うことについて、意欲を有する前途有望な若手研究者の方々に、同分科会を伴に担っていただきたいと考えています。

 こうした動きを歓迎したい。どこまで意見が反映されるのか、という問題があるが、門を開き始めたのは大きな一歩だ。

 ただ、「若手の声を」という意見には、常に反論がある。

 「若手っていったい何歳なのか。」
 「若手は年齢ではなく、研究経験だろう。」
 「若手という言葉を使うことで、様々な人を排除しているのではないか。」
 「教授などシニア研究者にも流動性を、任期制を、というが、自分たちがシニアになったときに、そんな不安定でもいいのか。」
 「教授は自分の力でこの地位を得たんだ。そんなに地位を得たかったら実力でなれ。」
 「若手がかわいそうなんていうが、昔だって大変だったんだ。」
 「どこにそのようなデータがあるのか。ちゃんと示せ(若手が不遇なんてデータはない)。」
 「昔より若手教員の数は増えてるんだ。昔は大学にさえいけなかった人がいるのだ。贅沢言うな。」
 「文句言っている暇があったら仕事しろ。」
 「意見は偉くなってから言え。」
 …

 こうした意見はそれぞれ一理あると思う。

 確かに、単純に年齢で区切るだけの若手、という区分は問題があるだろう。

 今一定の地位を占めている人たちだって、大変な努力の上に今の地位を獲得したのだろう。せっかく獲得した地位をそうやすやすと他人に渡したくないのは当然だ。

 高等教育の普及により、より多くの人たちが知識を得る機会を得たのは、とても大きなことだったと思う。貧困や戦禍にあえぐ時代の人たちより、いい時代なのだと思う。

 ただ、それでも、若手の声を、と言いたい。

 若手を研究歴上の若手にすべきというのはその通りで、その修正は必要だが(日本学術会議の若手アカデミーはある程度そうしている)、昔との比較に関わらず、どの時代だって今いる若手の置かれている状況の改善は必要で、そのためには若手の意見を政策に反映させなければならないと思う。

 ポスドク問題は、かつてのオーバードクター問題と、置かれている時代、人数など多くの点で異なっている。今のポスドクは、教員の順番待ちという側面を超えて、社会の中で生きていく場所すらなかなか見つからないという状況になっている。

 昔よりましだから文句を言うな、という意見が正しいのなら、現代に生きている人間はすべて意見を言ってはいけないということになってしまう。今の時代は、江戸時代や明治時代より衛生的によくなっているし、豊かにもなっているからだ。

 偉くなるまで意見を言わなかったらどうなるのか。偉くなったらかつて直面していた問題を忘れたり、優先度が低くなってしまうので、今当事者である人が声をあげなければ意味がないし、民主主義は地位で意見を言うことを妨げたりしない。

 一部にある、教授にも任期制を、という意見は、たとえ絶対数では増えていても、今の若手がそもそも教授になれる確率が以前より低いという背景から出ていることを理解いただきたい。

 ただ、注意してほしのは、「若手を(一方的に)優遇しろ」と言っているわけではないことだ。

 私が「オープンでフラット」という言葉で言いたかったのは、偉くなくても、老若男女誰でも、等しく意見が言えることが重要だということだ。世代だけが問題ではない。

 確かに立場によって意見が対立することがあるだろう。調整が必要なのは言うまでもない。特定の立場の人たちが一方的に他の立場の人たちを断罪するだけでは何も生まれない。

 ただ、意見さえ出なければ、あるいは意見を言うことさえできなければ、ある特定の意見が一方的に通りかねない。

 研究の世界を超えてみると、今、若い世代が声をあげていなければならないという動きが起こり始めている(たとえばワカモノマニフェスト

 こうして意見を言うところから、対話も生まれる。

 若手が意見を言うことは、単に世代間対立を生むことではない。世代を超えて、未来を作ることにつながるのだと思っている。

 総合科学技術会議日本学術会議の取り組みに期待をしつつ、もちろん厳しい目で見つめていきたい。

 また、私たち自身も、こうした動きに積極的に関わっていきたい。