科学・政策と社会ニュースクリップ

科学政策や科学コミュニケーション等の情報をクリップしていきます。

科学コミュニケーション百年構想?

 本日発行のメルマガの編集後記では、このブログに書いた「金メダルとノーベル賞」を改編して掲載した。

 結構分かりにくく、冗長で誤解を招いたみたいで、いくつかご意見をいただいた。

 ちょっと言い訳させていただく。

 まず誤解を生んだのはこの文章。

■オリンピック選手たちは、たとえメダルを取らなくても、全力を出し切る姿には刺
激を受ける。メダルの数が多い少ないをあれこれ言うのはみっともない。ただ、オリ
ンピックに出場すること自体がすごいことであり、熾烈な競争の結果であることを忘
れてはならない。メダルには届かなかったけれど美しい、というのは、メダルを狙う
熾烈な競争があり、メダルが時に運に左右されたりするから言える言葉だ。自己満足
で終わるのなら、アマチュアとして楽しくやればいいだけだ。

 まず、オリンピック選手は「アマチュア」がほとんどだろう、という指摘を受けた。

 確かにその通りで、言葉が適切ではなかったかも知れない。

 ここで言いたかったのは、姿勢の問題だ。オリンピック選手はそれ自体で収入を得ているわけではないが、極限までのめりこみ、妥協を許さない。

 一方、一般人や趣味人としてやる場合は、もちろん自分なりの目標があって、そのために努力をしようとするが、他人と競うという部分は比較的少ない。

 もちろん趣味人とオリンピック選手の間にはグラデーションがあり、たとえば国体を目指すとか、インカレを目指すとか、さまざまなレベルがある。

 共通して言えるのは、自分の限界近くまで自分の能力を引き出して、自分を厳しく律する人たちを、私たちは尊敬するということだ。全力を出し切って最下位の人のほうが、余力を残して3位の人より好感を持つ。

 ただ、私は決して、自己満足の楽しむ競技を否定しているわけではない。

 競技を楽しむ多くの人がいるからこそ、オリンピックを目指す人も出てくる。取材する人もいる。そして忘れてはならないのが、競技をしないけれど、競技を見る人たちがいるということだ。そういうものすべてをひっくるめて、スポーツという文化が成り立っている。


 スポーツと科学の安易な類推は誤解を生むばかりだが、それでもあえてスポーツにたとえたい。

 この場合の科学とは、純粋科学、すなわち直接的にはなんら産業的な利益を生み出さない分野のことをあらわす。工学系などはまた違った様相を呈してくるので、とりあえず置いておく。

 フィギアスケートの「野辺山合宿」は、科学にたとえると、科学オリンピックであり、スーパーサイエンスハイスクールであったりする。それがトップレベルの科学者を育成するために重要だとしたら、科学を自ら楽しむ人、スポーツでいうところの楽しんで競技をする人がいないと、幅が広がらない。

 そして何より、科学をしないけれど、科学をみて楽しむ人がいることが重要だ。

 科学の場合、自分は科学者じゃないけれど、科学を楽しむ層はいるが、なかなか自らの手で科学をしてしまう層はいない。場所の問題もあるだろう。そこらあたりが、スポーツと違う点であるかも知れない。

 ともかく、トップを高くすることとと、裾野を広げることは、同時平行で行う必要がある。トップだけ高くしても、そのトップがいなくなれば、崩れてしまうから。伊藤みどりに頼った日本フィギュア界と同じになってしまう。

 今回メダルを取ったが、日本のフィギア界も、各地のスケートリンクの閉鎖といった不安要素をかかえている。トップを高くするだけでは、これからも才能が続くとは限らない。


 ここで、Jリーグ百年構想を取り上げたい。

 この構想は、日本のサッカーリーグをプロ化して、ワールドカップを目指すだけでなく、地域のクラブチームを核として、サッカーにとどまらずスポーツを楽しむ人たちを増やそう、という構想である。

 スポーツはすべての人にとっての基本的人権ととらえ、地域にスポーツの拠点を設け、年齢性別に関わらず、どんな人でもスポーツを楽しめる環境を整えるという。

 そしてそのスポーツクラブでは、年齢に応じた一貫指導体制をとるという。

 このJリーグの取り組みは科学にも示唆的だ。

 才能のある若者を伸ばせるようなしくみと、科学を楽しむ層の拡大。前者は理科教育、後者は科学コミュニケーションとして語られる。現在この二つは別のもののような感じがするが、この二つが融合したとき、非常に面白いことが起こるのではないか。

 私はかねがね「相撲界に学べ」と言ってきた。相撲界では、引退した力士は各地でちゃんこ屋をひらくが、ちゃんこ屋は地域で有能な才能を発掘する拠点となり、有能な子どもを見つけると、出身の部屋に送ったりしているという。

 これを科学に応用したい。

 大学院やポスドクとして科学の第一線に身を置いた経験のある者たち、あるいはその経験はないが、科学に関して関心の深い人たちが、各地に散っていき、科学コミュニケーターとしてその土地土地でさまざまな活動をはじめたとしたら…

 各地域で科学に関心を持つ層が増え、科学の「観客」が増える。そんな観客の子どもたちの中に、自分で科学をやりたいという子どもが出てくる。そういう関心の深い子どもに対して、たとえば科学の最前線に触れたり、同じ興味を持つ子どもたちと合宿をするという機会を与えたら、さらに科学への興味が深まるだろう。そんな子どもたちに奨学金を与えたりして経済的に援助しつつ、その才能を伸ばすようにすれば、優れた才能を持った子どもたちが科学の道へと入っていくかも知れない。たとえそうならなかったとしても、科学への関心を深め、さらに次の世代に科学への興味を伝えてくれるかも知れない。

 この考えでいくと、理科の先生は優れた科学コミュニケーターとなりうる要素を持つ。先に書いたように、理科室が日本のどの小中学校にもあるというインフラは大きいし、小中はすべから通る道でもある。

 既存の科学メディアがマスを対象としたものであるのに対し、今の科学コミュニケーションはフェイストゥフェイスの場を重視する。これらは決して敵対するものではない。相互補完するものだ。

 散漫になったが、他の場で書いてきたことも含めてまとめる。

●広く関心のある層を増やし裾野を広げることが、今の科学コミュニケーションの多くの活動であり、それは理科と強く連携すべきだ。

●既存の科学出版などが、マスを対象にしたものであるのに対し、今の科学コミュニケーションは対人コミュニケーションを主体とする。これらは相互補完すべきだ。

●裾野があってはじめて山は大きくなれる。科学コミュニケーターは、科学に関心、才能のある若い人を発掘するセンターとなるべきだ。

ポスドクや大学院生、或いはリタイヤした研究者など科学の現場を経験したものが、各地で科学コミュニケーターとして活動することは、科学に関心を持つものを増やす意味で重要である。

●科学コミュニケーター養成の各コースは、社会のさまざまな場に入り込んで活動できる技術を教えてほしい。タンポポの種のように散っていき、落ちた先で根をはり花を咲かせる技術だ。

●各地の科学コミュニケーターは才能発掘の拠点となるべき。これにより、才能と関心のある若者を科学業界にリクルートできる。

●大学や科学館、小中高校は科学コミュニケーターの活動拠点となるべき。


 これで、科学を介した知の循環システムができる。各地に散った科学コミュニケーターが関心層を増やし、優れた才能を発掘する。それらが科学の世界に入り、その一部は科学コミュニケーターとして地域に帰っていく。これが何度も繰り返される…

 こういう仕組みができるのに何年かかるか分からないが、私はサイコムジャパンを通して、こうした仕組みつくりにチャレンジしてみたい。

 散漫になったが、もうすこし分かりやすく考えをまとめてみたい。