科学・政策と社会ニュースクリップ

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金メダルとノーベル賞

 トリノ五輪のフィギアスケートで荒川静香選手が金メダルを取ったが、報道などによると、この金メダルは「野辺山合宿」(有望新人発掘合宿)の成果だという(以下日経新聞2月24日参照)。

 1992年、伊藤みどりアルベールビル五輪で金メダルを逃したことで、世界で勝つには層を厚くしなければならないと考えて始まったこの合宿。全国から100名をこえる子どもたちが集まり、体力測定や表現力、演技などをみて将来性のある子を選ぶという。英語の必要性、インタビューの心得も学び、全日本の選手の強化合宿に参加。人間的な交流もはじまるという。

 将来を嘱望された選手は、海外に派遣され、コーチの指導も受ける。

 こうして次々と有望な選手が次々と生まれていく。荒川選手も「野辺山合宿」に一期生として参加し、その才能を発掘されたという。


 こうした方式を、科学の人材育成にも応用できないかと思う。もちろんいうまでもなく、少しずつ始まっている。

 歴史を重ねつつある数学オリンピックや、最近盛んになりつつある科学系のオリンピック。女性研究者志望の高校生を集めた合宿も始まっている。優れた才能が早期に発掘される舞台が整いつつある。阪大が物理オリンピックの優秀者を無試験で入学させるというニュースもあったが、こうしたことはどんどんやるべきだと思う。また、科学コミュニティーも、本気で人材育成に取り組む気があるのなら、優れた若者に奨学金を出したり、外国に派遣したりする事業をもっと拡大してほしいと思う。


 さて、これからが本題。

 野辺山合宿の目標は、はっきり「金メダル」にある。メダルを取るために人材を発掘し、層を広げている。それを皆が拍手喝さいする。

 ひるがえって、科学はどうか。

 科学の金メダルといえば「ノーベル賞」だが、今後50年で30個のノーベル賞を取るという目標がぶち上げられたとき、科学コミュニティーやマスコミからは非難轟々の声があがった。

 ノーベル賞は狙って取るものではない、あくまで結果として取るものであり、そんなのを目標とするのははしたない、科学とは本来普遍的なものであるはずなのに、ナショナリズムを持ち込んでいる…そんな声があがった。

 そういう声はもっともだと思う。

 確かに狙って取れるようなものではないし、ストックホルムかどこかに事務所を開いてロビー活動をしたところで、あまり効果はないだろう。そんなことにお金を使うくらいならば、若い研究者の研究環境向上に使ってほしい…そう思う。ノーベル賞取得が目的化したら、どろどろとした醜い先駆け争いが起こるだろうし、いくつかそういう事例もあると聞く。

 しかし、ノーベル賞数値目標を非難する研究者たちが「無垢」であるかといえば、決してそうではない。

 ノーベル賞は狙わないといいながら、「インパクトファクター」を基準にした評価がなされているのをどう説明するのか。NatureだCellだと騒ぎ、先駆け争いをしている。最近目立つ研究の不正行為も、その流れのひとつではないのか。

 ノーベル賞ならはしたなくて、インパクトファクターならよい、という根拠はどこにあるのか。ノーベル賞はだめ、インパクトファクターはいい、というのは、いかにも中途半端だ。露骨な競争をくりひろげているのが現実なのに、崇高を装うのは欺瞞ではないか。

 問題は、いかに才能ある人に研究をのびのびとやってもらい、その才能をさらに伸ばしてもらうことなのではないか。「ナンバーワンよりオンリーワン」もいいけれど、それでも何か目標みたいなものがあってもよいように思う。

 目的ではなく、目標として、そういう状態になるためにどう環境を整えればよいかを考えられる言葉。ノーベル賞ははしたないというのなら、「世界レベルの研究者」でもいい。こんな人になりたいな、というロールモデルを提示するのもひとつの手だ。

 数値目標云々で議論がストップするのではなく、その先のことを考えたい。オリンピック中継を見ながらそんなことを考えた。