昨日もNHKスペシャルを見たわけだが、やはり医療現場と患者の間に大きな溝が存在しているのを実感した。
昨日の番組では、ホスピスがあたかも医療の敗北、好ましくないところとして描かれていた。
「死は敗北ではない」というのが昨今の流れかと思っていたが、市民、患者さん側にもまだまだその意識は浸透していないのではないかと思った。
淀川キリスト教病院の(だった)柏木先生をはじめ、ホスピスに取り組む医師の方々が注目を集めており、社会もホスピスを受け入れ始めていると思ったのだが、それは医療者、マスコミの描いたブームであり、患者さんは生にあくまでこだわっていたのか。
もちろん、疼痛ケアを初期から行っていない日本の医療の現状は問題だし、変える必要がある。
いずれにせよ、医療現場、報道機関、患者、そして一般の市民の間に情報や考え方の違いが横たわっていることを痛感させられた。
前にも書いたが、これは科学コミュニケーションにも横たわる問題である。
今回の番組でも感じたが、医師も、そして患者自身も、専門知を医師が持ち、政策決定権を厚生労働省が持っていると思っており、患者が医師や厚生労働省にお願いするという図式になっていた。
これではいわゆる「欠如モデル」(市民が知識を欠如している存在と考え、専門家がそれを埋め合わせるという一方方向モデル)であり、情報の流れが一方向である。
しかしながら、情報を薄めた形で「素人」に「分かりやすく」伝えたとしても、それはあくまで擬似の双方向性であって、決定権は専門家が握ることになる。
科学コミュニケーションの課題は「双方向性」をどうやって作り出すか、ということであると思うが、ここで発想を変えなければならない。
「素人」というのは存在せず、それぞれが専門性を持った人であると定義しなおす必要がある。
誰かの受け売りで申し訳ないが、市民や患者を「現場知」のプロフェッショナルとしてとらえることで、はじめて双方向コミュニケーションができるのではないか。
医療者は痛みを自らの体験として経験することはできないし、医療サービスの受け手として医療をみることができない。それらを経験しているのは患者である。そうとらえることで、「素人」として見下すような欠如モデルから抜け出せるのではないか。
そうは言っても簡単ではない。現場知と専門知をつなぐ媒介者が必要になる。それが科学コミュニケーターだ。
つなぐといっても、薄めて「分かりやすく」だけではいけない。
いろいろなコミュニケーターが必要だと思うが、米本昌平氏がいう以下のようなコミュニケーターも必要ではないかと思う。
情報化社会の理想は、多様で正確な情報が、いつでも、自由に手に入れられることなのだが、日本の現実はそれからはるか遠い状態にある。メディアがメディアを引用し、ネタ元が同じと思われる情報が、大量に表層を流れているだけである。落ち着いてわれわれの到達点を点検し、将来にむけて考察をめぐらすためには、個々人が切実に必要と思ったときに、ハードな科学情報が有用な形で入手できないといけない。そのための供給システムは、古臭い「科学啓蒙」のイデオロギーから抜け出していなくてはならない。専門家だからという理由で、利害当事者である科学者に情報を汲み出す作業をまかせきるのではなく、科学研究に共感をもちながらも、これを突き放した中立的な視点から科学論文を読みとく読み手を、社会の側が確保することがぜひとも必要である。そして正確で、公平で、安定した自然の姿がわれわれの間で共有された後、そこに共通の意味体系もおのずと浮かびあがってくるのであろう。