科学・政策と社会ニュースクリップ

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あきらめない

 今月号の現代科学
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の記事「社会不安を生む科学」(渡辺 正)を読んで、またか、と思ってしまった。

 記事の内容はマスメディア批判。地球温暖化環境ホルモンなどが根拠に乏しいことを批判し、そんな間違った記事を書くメディアはけしからん、と言っている。

 正直言う。この手のメディア批判は何ももたらさないのではないか。

 とかく研究者は、メディア批判をしたがる。

 もちろん、正しくない、間違っている、という指摘はすべきだし、マスコミュニケーションの影響力の大きさを考えると、正しいデータや解釈で報道してほしいと考えるのは当然だ。

 けれども、得てしてマスコミ批判がマスコミ関係者の無能を馬鹿にするような論調になるのは、横で見ていて不快な気持ちになる。

 間違ったことには間違ったというべきだ。しかし、間違ったものをけなすような批判が多すぎる。上の文章でも、

マッチポンプ」「ドブに捨てる」「狼少年」

などといった刺激的なコトバが並ぶ。

 研究者のマスコミ批判には、記者の知的レベルへの見下しのような感情が見え隠れする。そして一方的に非難するばかりである。

 しかし、見下された側が、はいそうですか、となる可能性は低い。ますます頑なになり、批判を強めていくだろう。そんな関係からいったい何が生まれるのか。


 甘いといわれるのは分かっている。太陽で温めるより、北風を吹かしてしまえという人が多いのも理解している。


 けれど、それでも私は相手を尊重した上で対話から始めたい。

 間違ったら間違ったという。よければほめる。何がよくて何が悪いのか、顔の見える対話をする。

 研究者だって「科学者は云々」と言われるといやな気持ちになるだろう。だから、「マスコミは云々」はやめよう。○○新聞の何月何日のあの記事は間違っている、本当はこうである、というようにしよう。

 こういう作業は時間がかなるし、報われないかも知れない。しかし、レッテル貼りの非難は、コミュニケーションをストップさせる。

 対話を繰り返せば、どうしてそういう記事がでるのかが分かるかも知れない。そうすれば、改善点が見えてくるかも知れない。こうした解決策はレッテル貼りからは出てこないだろう。

 適度な距離感を保ち、協力できるところは協力し、批判すべきところは批判をする、そういう大人の関係でありたい。

 難しいのは承知しているが、私たちサイコムジャパンは、双方向のコミュニケーションの可能性を諦めず追求していきたい。


 話は変わるが、近年高まる「報道の前にチェックさせろ」という意見には賛同できない。報道機関側がこれでいいのですか、とチェックを求めてきたのならそれはそれでいい。しかし、事前チェックを義務付けるのはいきすぎだ。

 友人が教えてくれたフラー?のコトバ「民主主義は間違える権利を保障する」というのは名言だと思う(うろ覚えですみません)。